<江戸時代>花魁用 襠(打掛)一式

<江戸時代>
花魁用 襠(打掛)一式
(おいらんようしかけ(うちかけ)いっしき)

第19回きもの展作品
花魁用 襠(打掛)一式

花魁(おいらん)は、最高級の遊女の呼び名で傾城(けいせい)、和尚(おしょう)、太夫(たゆう)ともいいました。
花魁(おいらん)は江戸(東京)の呼称です。
「己等(おいら)が太夫(たゆう)さん」から生じたといわれ京都では「此方(こっち)の太夫(たゆう)さん」から「こったいさん」と呼ぶようになったと伝えられます。
太夫は、歌舞音曲はもとより生花、茶ノ湯、書、和歌など全ての学芸に堪能な超美人でしたので寛保の頃(1743年頃)の吉原の遊女二千人のうち、太夫は二人であったといわれます。
それだけに衣裳は立派そのものでした。
胴抜きと呼ばれる間着に、俎(まないた)と呼ぶ大きい前帯を結び襠(しかけ)と呼ぶ打掛(黒地肩桜滝紅葉裾岩石)を着ます。
当時の最も豪華で高価な衣裳でしたが足袋をはくことが禁じられ「傾城は足袋屋にばかり借りはなし」という一句があります。

小林豊子きもの学院は日本の心と美を伝える文化事業『日本伝統衣裳の復元・きもの展』を毎年開催させていただいており今回の製作テーマを江戸時代の町家服飾より最も絢爛華麗な「花魁(おいらん)衣裳」とさせていただきました。

製作しました花魁衣裳は赤間神宮(下関市)先帝祭の「上臈(じょうろう)参拝」における花魁姿を擬したものでございます。

八百二十年前、御歳わずか八歳の安徳天皇が御入水され亡き幼帝の鎮魂祭として毎年御命日の五月三日(旧暦三月二十四日)に「先帝祭」が執り行われています。

花魁衣裳の美しさを是非お楽しみいただきたいと思います。

そして、亡き幼帝の御冥福を祈るために春をひさぎ遊女となって生き続けた平家の姫達の姿であることを思い起こしていただければ幸いに存じます。